佐藤精一郎上飛曹 ― 2010年03月18日 10時38分58秒
343空戦闘301の佐藤精一郎上飛曹(甲10期)。
同期生でもあり、比島・343空と一緒に戦っていたK上飛曹が、
「戦闘301の技倆一番」
と太鼓判を押したのはこの佐藤上飛曹です。
比島時代は若手ながら、その技倆を見込まれてか、飛行隊長の鈴木宇三郎大尉の列機もつとめていました。
19年10月13日、出撃の帰りにエンジン不調で海上に不時着水、機外に出て泳ぎ始めた鈴木隊長の生きている姿を最後に見たのもこの佐藤上飛曹でした。
佐藤上飛曹は機上ではどうすることもできず、帰投後に救援を依頼。
しかし、鈴木隊長はそのまま行方不明、戦死。(森史朗『敷島隊の5人』)
343空時代は、20年5月28日の出撃で怪我をして戦列を離れるまで、分隊長・松村正司大尉(兵71期)のほぼ固有の列機であったようです。
碇義朗『紫電改の六機』の中に、松村大尉、佐藤上飛曹、今井進2飛曹、西村誠1飛曹で編隊訓練をしたときの話として、次の話が紹介されています。
『訓練が終わって研究会のとき、四人の中ではもっとも飛行時間の多い山本(佐藤上飛曹のこと)が、「あれくらいの動きで一番機についていけないでどうする」と今井や西村に注意する一方では、松村にも注文をつけた。「分隊長、さっきはいけませんでしたよ。自分一機ならどうにでも動けますが、一番機の動きがあまり急だと、あとについている機は振りまわれてしまうから、もう少し遠まわりして下さい」
部下や自分より階級の下の者に言われると腹を立て、高飛車に出る士官もすくなくなかったが、松村は決して威張ったりすることなく、部下の忠告を素直に受け入れた』
こういうことは1度2度ではなかったようです。
しかも、松村大尉は「忠告を素直に受け入れた」だけではなく、佐藤上飛曹に対して、
「自分は佐藤上飛曹のおかげで生き残れた」
というふうに感謝の気持ちを持っておられたようです。
戦後になっても、
「佐藤くんによく叱られた」
「そのおかげで自分は生き残れた。感謝している」
というようなことを周囲に言われていたようです。
佐藤上飛曹は、比島で自分の小隊長でもあり飛行隊長でもあった鈴木宇三郎大尉を目の前で失うという苦い経験をしています。佐藤上飛曹にはまったく責任のないことですが。
佐藤上飛曹が列機として、鈴木隊長から受けた影響は大きかったはず。
鈴木隊長の後ろ姿を見ながら一人前の戦闘機乗りに育った佐藤上飛曹は、松村大尉は何がなんでも守り通したいという思いで、言いにくいこともあえてずばずば進言されていたのだと思います。
前述の5月28日の怪我の話―。
『大村基地で迎えた昭和20年5月27日の海軍記念日は、久しぶりに夜を徹して隊員一同痛飲しながら転戦のあとを振り返り、亡き戦友の面影を偲びあるいは語らい、明日の我が身の運命を呪ったものでした』(佐藤精一郎 『343空隊誌』)
どうして佐藤上飛曹は宴会の席で、明日の我が身の運命を呪っていたのか。
『翌28日早朝飛行場にて搭乗員整列がかかり、集合してみれば昨夜の予感が的中し、第2大隊1小隊8機が当直待機となった』
ということなので、つまり、こういうことでしょう。
昨夜の宴会中からすでに、「明日の搭乗はとうていムリだろう」という勢いで飲んでおられた方がいらっしゃった、と。
佐藤上飛曹が手記に書いている28日待機になった「第2大隊第1小隊8機」の顔ぶれは、
第1区隊 松村正二大尉
佐藤精一郎上飛曹
宮本芳一上飛曹
吉原真人一飛曹
第2区隊 堀光雄飛曹長
以下省略
なので、これ以外の方が「昨夜から明らかに明日の搭乗はムリとわかるほど痛飲されていた」ということで(^_^;)
どなたかわかるはずもないですが・・・・・あ! 指揮官先頭のはずの戦闘301なのに、あの人の名前がない!!
まあ、とにかく、このメンバーで待機していたところ、昼前に敵がやってきたのです。
8機で出撃したものの、松村大尉エンジン不調で引返し、ホリブンもエンジン不調で引返し(のち不時着水)。
残り6機の指揮を佐藤上飛曹がとりながら南下、昼過ぎに会敵し空戦に入りました。
相手はP51ムスタングだったらしいです。
四番機(吉原機)が増槽が落ちずに敵機につけこまれているところに割り込んでいったところ、
『腹下から撃ち上げられ火炎に包まれてしまいました』
佐藤上飛曹は気を失ったまま落下。途中で機が空中分解したため落下傘が開きました。海上を漂流中に警備隊のランチにすくい上げられ一命をとりとめたものの、そのまま戦列を離れることになったのでした。
撃墜され、気を失う前の一瞬、お母さんの厳しい顔がまぶたいっぱいに現れて消えていったそうです。
佐藤上飛曹は比島時代にも撃墜されたことがあり、そのときも気を失う前の瞬間にお母さんの顔が浮かんで消えていったそうです。
お母さんは佐藤上飛曹が軍人になることに反対で、強引に商業学校に進ませたのですが、商業学校2年の時、亡くなられたそうです。
最後まで反対していたお母さんが亡くなったことで、佐藤上飛曹は予科練に入隊できました。
『母の願いと異なった道を進んだ私のために、母は冥土へもゆけず、母の魂はこの世に在りて私と共に転戦してきたことでしょう。―生と死の境に在りて死の世界へ入らんとする私を生の世界へ戻すために―』
同期生でもあり、比島・343空と一緒に戦っていたK上飛曹が、
「戦闘301の技倆一番」
と太鼓判を押したのはこの佐藤上飛曹です。
比島時代は若手ながら、その技倆を見込まれてか、飛行隊長の鈴木宇三郎大尉の列機もつとめていました。
19年10月13日、出撃の帰りにエンジン不調で海上に不時着水、機外に出て泳ぎ始めた鈴木隊長の生きている姿を最後に見たのもこの佐藤上飛曹でした。
佐藤上飛曹は機上ではどうすることもできず、帰投後に救援を依頼。
しかし、鈴木隊長はそのまま行方不明、戦死。(森史朗『敷島隊の5人』)
343空時代は、20年5月28日の出撃で怪我をして戦列を離れるまで、分隊長・松村正司大尉(兵71期)のほぼ固有の列機であったようです。
碇義朗『紫電改の六機』の中に、松村大尉、佐藤上飛曹、今井進2飛曹、西村誠1飛曹で編隊訓練をしたときの話として、次の話が紹介されています。
『訓練が終わって研究会のとき、四人の中ではもっとも飛行時間の多い山本(佐藤上飛曹のこと)が、「あれくらいの動きで一番機についていけないでどうする」と今井や西村に注意する一方では、松村にも注文をつけた。「分隊長、さっきはいけませんでしたよ。自分一機ならどうにでも動けますが、一番機の動きがあまり急だと、あとについている機は振りまわれてしまうから、もう少し遠まわりして下さい」
部下や自分より階級の下の者に言われると腹を立て、高飛車に出る士官もすくなくなかったが、松村は決して威張ったりすることなく、部下の忠告を素直に受け入れた』
こういうことは1度2度ではなかったようです。
しかも、松村大尉は「忠告を素直に受け入れた」だけではなく、佐藤上飛曹に対して、
「自分は佐藤上飛曹のおかげで生き残れた」
というふうに感謝の気持ちを持っておられたようです。
戦後になっても、
「佐藤くんによく叱られた」
「そのおかげで自分は生き残れた。感謝している」
というようなことを周囲に言われていたようです。
佐藤上飛曹は、比島で自分の小隊長でもあり飛行隊長でもあった鈴木宇三郎大尉を目の前で失うという苦い経験をしています。佐藤上飛曹にはまったく責任のないことですが。
佐藤上飛曹が列機として、鈴木隊長から受けた影響は大きかったはず。
鈴木隊長の後ろ姿を見ながら一人前の戦闘機乗りに育った佐藤上飛曹は、松村大尉は何がなんでも守り通したいという思いで、言いにくいこともあえてずばずば進言されていたのだと思います。
前述の5月28日の怪我の話―。
『大村基地で迎えた昭和20年5月27日の海軍記念日は、久しぶりに夜を徹して隊員一同痛飲しながら転戦のあとを振り返り、亡き戦友の面影を偲びあるいは語らい、明日の我が身の運命を呪ったものでした』(佐藤精一郎 『343空隊誌』)
どうして佐藤上飛曹は宴会の席で、明日の我が身の運命を呪っていたのか。
『翌28日早朝飛行場にて搭乗員整列がかかり、集合してみれば昨夜の予感が的中し、第2大隊1小隊8機が当直待機となった』
ということなので、つまり、こういうことでしょう。
昨夜の宴会中からすでに、「明日の搭乗はとうていムリだろう」という勢いで飲んでおられた方がいらっしゃった、と。
佐藤上飛曹が手記に書いている28日待機になった「第2大隊第1小隊8機」の顔ぶれは、
第1区隊 松村正二大尉
佐藤精一郎上飛曹
宮本芳一上飛曹
吉原真人一飛曹
第2区隊 堀光雄飛曹長
以下省略
なので、これ以外の方が「昨夜から明らかに明日の搭乗はムリとわかるほど痛飲されていた」ということで(^_^;)
どなたかわかるはずもないですが・・・・・あ! 指揮官先頭のはずの戦闘301なのに、あの人の名前がない!!
まあ、とにかく、このメンバーで待機していたところ、昼前に敵がやってきたのです。
8機で出撃したものの、松村大尉エンジン不調で引返し、ホリブンもエンジン不調で引返し(のち不時着水)。
残り6機の指揮を佐藤上飛曹がとりながら南下、昼過ぎに会敵し空戦に入りました。
相手はP51ムスタングだったらしいです。
四番機(吉原機)が増槽が落ちずに敵機につけこまれているところに割り込んでいったところ、
『腹下から撃ち上げられ火炎に包まれてしまいました』
佐藤上飛曹は気を失ったまま落下。途中で機が空中分解したため落下傘が開きました。海上を漂流中に警備隊のランチにすくい上げられ一命をとりとめたものの、そのまま戦列を離れることになったのでした。
撃墜され、気を失う前の一瞬、お母さんの厳しい顔がまぶたいっぱいに現れて消えていったそうです。
佐藤上飛曹は比島時代にも撃墜されたことがあり、そのときも気を失う前の瞬間にお母さんの顔が浮かんで消えていったそうです。
お母さんは佐藤上飛曹が軍人になることに反対で、強引に商業学校に進ませたのですが、商業学校2年の時、亡くなられたそうです。
最後まで反対していたお母さんが亡くなったことで、佐藤上飛曹は予科練に入隊できました。
『母の願いと異なった道を進んだ私のために、母は冥土へもゆけず、母の魂はこの世に在りて私と共に転戦してきたことでしょう。―生と死の境に在りて死の世界へ入らんとする私を生の世界へ戻すために―』