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戦友の手記に登場するホリブン2010年01月09日 10時26分10秒

ホリブンは戦後『紫電改空戦記』という手記を書いています。
本人が書いた手記というのはえてしてその人物像を狂わせてしまいがちです。
ママは手記を読んだ印象では、ホリブンは戦闘機乗りらしく気の強い元気者だと思っていたのですが、実際は、
「もの静かでやさしい人」
だったらしいです。
では、他の人から見たホリブンはどうだったのか?
戦友の手記に登場するホリブンを集成してみました。

【台南空時代】
坂井三郎『戦話・大空のサムライ』光人社
この“メイン”と“サブ”の二つの食卓の主人公たちのなかに、大木芳男、西沢広義、太田敏夫といったところの旧日本海軍航空隊の大エースたちがおり、それにつづいて、本田敏秋、遠藤桝秋、吉田素綱、羽藤一志、山崎市郎平、吉村啓作、水津三夫、国分武一、柿本円次、堀光雄、和泉愛雄、有田義助、石井静夫、河西春雄といった数々の若者たちが、大空の一本勝負を日々勝ち抜いて、言葉は適当ではないかもしれませんが、やがてかれらは“ラバウルのエース”となってのし上がってきたのであります。

これは台南空下士官兵舎の食卓の話で、ベテラン度によってテーブルが別れていた、というような話題のあとに出てくる話です。
なぜ、バリバリ出撃していたメンバーの羅列の中に新米のホリブンの名前が唐突に出てくるのかわからないのですが、とにかく、ホリブン↑、坂井さんに誉めてもらっているっぽいです(^o^)

補足ですが、ママ調べではホリブンは台南空時代は、”ラバウルのエース”と呼ばれるような戦果は上げていないはず・・・・。

(ママ注:「和泉愛雄」はたぶん和泉秀雄2飛曹のこと。石井静夫さんはラバウル台南空には所属していなかったのでは?)

【582空時代】
角田和男『修羅の翼』光人社
昭和十八年一月二日、東部ニューギニアのマクラレンに艦船攻撃の艦爆隊直掩隊がラバウルに帰投した際、私はマラリアの熱の下がった時だったので指揮所より下り、搭乗員幕舎の前まで迎えに出ていた。そこへ二番機堀光雄二飛曹、三番機明慶幡五郎飛長が駆け寄り、ちょうど幕舎の前で一番機の樫村さんに追い付いた。
樫村さんは、明慶を振り返って、
「お前、俺を撃ったな」
と言った。非番の搭乗員たちはそれを聞くと期せずして「わあッ」と手を叩いて喜んだ。樫村さんも例のごとく顔を赤らめて苦笑いしていたが、この時の空気は決して険悪なものではなかった。明慶はなおさらに赤くなって、弁解せずに小さくなっていた。この日、戦場でB24一機を発見しているが、直掩が任務だったため、攻撃はしていなかった。明慶はこの敵を小隊長に知らせようとして二十ミリを発射したらしい。あるいは誤発だったのかもしれない。

これは樫村飛曹長と明慶飛長のエピソードです。
ホリブンはこの日、樫村小隊の2番機で出撃していて、角さんの手記に名前を書いてもらっています(ホリブン自身が何かしたわけではない)。
しかし、唯一、582空時代のホリブンを他人目線でとらえた箇所なので挙げておきます。

【高雄空時代】
堂本吉春「回想 神雷部隊の一員として」文藝春秋編『証言・桜花特攻 人間爆弾と呼ばれて』
なお、どうしたことか、教官(兵曹長以上)、教員(下士官)の訓練用として雷電(局地戦)が二機配属されることになり、学生分隊の先任教員三上兵曹(乙飛十期十三志、戦後死亡)たちが受領して帰ってきた。

堂本さんは「三上兵曹」と書いていますが、正確には「堀兵曹」です。
ホリブンは戦後結婚して三上に姓が変わっているので、戦争中は「堀」さんだったはず。
で、この雷電の話ですが、渡辺洋二さんの本にも出ています。

渡辺洋二『局地戦闘機 雷電』文春文庫
高雄空では、「雷電」の講習に分隊長・斎藤順大尉と先任教員・堀光雄上飛曹の二名、「月光」の講習にも教員二名を派遣した。

19年夏のことです。
この、雷電受領時のことかどうかよくわからないのですが、K上飛曹がホリブンに初めて会ったのも19年夏・群馬の中島飛行機だったというようなことを言われていました。
1度か2度、台湾から内地に戻ってきたようです。

【343空時代】
今井琴子「拝啓 三四三空の皆様」『三四三空隊誌』
思えば、元気のよい菅野大尉が松村大尉とご一緒に宅へ来られて、先陣の故井上中尉や柴田、宮崎、笠井、佐藤、さん達共々に上下の別なく賑やかに飲み食べ歌ったひと刻がありました。

いままで挙げたホリブン登場の手記を読んでいただいたらわかると思いますが、「堀さんはこういう人だった」「堀さんがこういうことをやった」という話が全然ありません。
あることを紹介する中で、搭乗員数名の中の1人として名前を挙げられている、という登場のしかたです。
今井さんの手記でも例外ではありません。
しかも、名前が挙がっている下士官3人の中ではホリブンが最先任なのに名前は最後。これを見ると、
「ホリブンって、本当にもの静かで存在感なかったのかなー?(-_-)」
と思わざるをえません。

最後に、唯一、ホリブンの人柄について触れている貴重な手記。
【終戦後】
加藤種男『皇統護持作戦の回顧』なにわ会HP
杉安部落の有力老後ノロ茂氏(ママ注:後口・ウシログチ)に面接、経歴地区活動の状況及び思想風評を聞き、其の出身は和歌山で、兄弟が山林関係事業に精通沈着冷静、九州有数の木材商にて人格高潔、高い見識の持ち主であることが判明す。司令直接面談の結果「一身を投げ打って協力を引き受ける」 との確約をとり、当地を第一の行在所建設の用地と決定され、小生及び大村兄、飛曹長を当地開拓の主務者又渡辺要務士を連絡係として行動に入ることとなった。時に昭和20年11月初旬であった。

戦後、隠密裡に遂行された皇統護持作戦。
加藤種男大尉(機53)と大村哲哉大尉(兵72)、ホリブンの3人はもしもの時のために皇族をお迎えする行在所建設のため、宮崎西都の奥地・杉安に潜伏します。

杉安班は和田旅館を根拠地として、即刻行在所建設の諸準備に入った。尚3名は今後本部との直接の報告連絡を行い、行動はすべて司令よりの指示を仰ぎ、建設作業に集中し一日も早い完成に努力することになった。
食事は自炊を原則とし、3名交代で炊事当番に当り、終戦時に受け取った、3,800円程度の手当も大切に活用、特別費は請求により本部支給とし、当分外部との接触を断ち、和田旅館の家族、後口家の一族及び使用人が交際の範囲となった。
森林の開墾、畑地の農作業と全く晴耕雨読其のものの日々が過ぎ、後口家を介して時には町内会への協力にも努めた。(杉安入植のふれ込みで) 農耕は大村君の意見を重視し、肥料は早朝近隣の汲取り肥料が主であり、俄か百姓の苦労を思い知らされる毎日であった。
物価も食料品を中心に高騰を続け、一日一合の一人分の配給米に陸軍の残品(高梁の粉末)と、甘藷(7円/4K)秋刀魚(1匹14円) が唯一の蛋白源で時々卵入りの雑炊の有様、野菜は後口家の差し入れと近所の労役による雑収で賄った。一の瀬川の鰻も君の獲物として食膳に上がったことがあったが、目的を前にした我々には左程の苦痛も感ぜず、ただ用地の整備、建築資材の搬入には右足負傷の大村君には大変な苦労があったと思い出される。

一ツ瀬川
ホリブンが鰻をとった一ツ瀬川(ひとつせがわ)。木立の向こうは和田旅館のある杉安の集落。

21年の4月に故大西中将の未亡人・淑恵夫人(笹井中尉のおばさん?)が家財道具持参で杉安まで応援に駆けつけてくれたそうです。

其の上、夫人の御来着を機に地元の子供達の出入りも増し、雨の日等は学校の帰途宿題を持込み、寺子屋の様相が生まれ子供達の両親より差し入れがあり、交際の輪は広がり温厚なる大村君、軽快な君は子供達の人気の的となり、ともすればいら立ちを感じ勝な我々の心を和まして呉れた思い出も懐かしい。

 行在所建設の土地の整理も建築用材の搬入も人夫を傭う余裕なく、大村君、君との3人にて家の五寸角元柱25本に二寸角材27本・十三尺の角材27本等々不馴れな我々には厳しい鍛錬との闘いは続き雨の日は平泉澄(東大教授)の「皇統」杉本五郎著の「大義」等、頭と心の引き締めになった読書も大きい思い出である。

↑ほんの一部ですがホリブン登場箇所を抜粋。

「温厚な大村君」はなるほどとよくわかるのですが、「軽快な堀君」、この部分が?です。しかも「子供たちの人気の的」ですよ! 「若い女性に人気の的」ならわかるのですが。

いや、冗談はさておいて。「もの静かな」ホリブンのイメージとちょっとちがいます。

ですが、農作業、漁業(鰻獲り)、子守、土木・建築作業・・・・ここらへんからもうホリブンのイメージとはほど遠いので、子供たちにまとわりつかれている「軽快な堀君」もあり!ってことで。


※ホリブンにまとわりついていた子供たちへの取材を試み、昨夏、杉安を訪れたのですが、残念ながらどなたにも会えませんでした・・・・

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