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伊藤叡中尉2009年04月29日 16時26分29秒

大和と共に出撃し艦と運命を共にした第2艦隊司令長官・伊藤整一中将の遺書。

此期に臨み 顧みると吾等二人の過去は幸福に満てるものにて 亦私は武人として重大なる覚悟を為さんとする時 親愛なる御前様に後事を托して何等の憂なきは此上もなき仕合と衷心より感謝致居候
御前様は私の今の心境をよく御了解なるべく 私は最後迄喜んで居たと思はれなば御前様の余生の淋しさを幾分にもやはらげる事と存候
心から御前様の幸福を祈りつつ
いとしき最愛のちとせどの                         整一


私は今 可愛い貴方達の事を思つて居ります。
さうして貴女達のお父さんは御国の為に 立派な働きをしたと云はれるやうになり度いと考へて居ります。もう手紙も書けないかもしれませんが
大きくなつたらお母さんの様な婦人におなりなさいと云ふのが私の最後の教訓です
御身大切に                                
                                         父より


色々考へたが貴女達には特に訓ふる必要もないから今迄通り仲善く幸福の生活を営む事を祈つて居ります                
                                         父より

                            (半藤一利『戦士の遺書』文春文庫)

日付はすべて20年4月5日。大和が沈む2日前です。

最初の手紙は奥様へ、2通目は次女と三女の方へ、3通目はすでに嫁がれていた長女の方へ・・・・です。

伊藤中将にはもうお一人、お子さんがおれました。
男の子です。

1990年のテレビドラマ『戦艦大和』で、4月5日の夜、長官室で遺書を書く伊藤中将が描かれています。
奥様と次女三女への遺書をしたためられているところに有賀艦長が訪ねてきます。
2人の会話の中で、この長男のことに触れて、
「息子には改めて書く必要はないだろう、息子も私と同じ思いだろう」
と言われる長官。
有賀艦長がこう言います。
「ご子息は特攻隊員として鹿屋航空基地にいらっしゃるのでは」

シーンは進んで、鹿屋基地。
宇垣長官が特攻隊員たちに、
「明7日、沖縄へ」
と命令を下します。

隊員たちは敬礼のあと解散、帰ろうとするひとりの隊員を宇垣長官が引き留めます。
「おい、伊藤中尉」
そうです。伊藤長官のご子息、伊藤中尉です。
宇垣長官、
「途中で沖縄へ向かう大和の上空を通過するだろう。大和をよく見てゆけ」

そして7日朝、沖縄へ向かっている大和の上空に零戦の編隊が現れます。伊藤中尉率いる鹿屋の特攻隊です。
低空を飛行しながら大和に敬礼する伊藤中尉。
長官も艦橋から特攻隊に向かって敬礼。
特攻隊はそのまま沖縄目指して飛び去っていきました。


・・・・。
わたしはこのドラマを見たとき、これが史実だと思いこんでしまいました。
伊藤長官には特攻隊のご子息がいて、長官と同じ日に特攻戦死されたと。

すっかりだまされていました。

伊藤叡(あきら)中尉

東京府立6中出身。海兵72期。41期飛行学生・戦闘機。
修了後、筑波空の教官。戦死するまで筑波空におられたようです。

大和が沈んだとき、どこでどのようにその報に接したのかわかりません。

家にある本やネットで、4月7日の大和の上空直衛戦闘機のこともちょっと調べてみたのですが、直衛隊の詳細は不明でした。
この中に伊藤中尉が含まれていて大和の出撃を見送ったのかどうか、また当日特攻編成されて大和の上空を通過し沖縄に向かったのに、途中で何かの事情で引返したのか、それもわかりませんでした。

4月の下旬は谷田部空・筑波空の混成隊の行動調書が残っています。
何度か鹿児島の出水基地からB29邀撃に上がっています。
4月21日 B29邀撃 発動機に被弾
4月26日 B29邀撃 敵を見ず
4月27日 B29邀撃 B29に黒煙を吐かせるも油漏れ 目達原に不時着
4月28日 1530 沖縄伊江島付近哨戒中敵F4U約16機と交戦 未帰還

つまり、伊藤中尉は特攻ではなく、戦闘機乗りとして敵機と戦って戦死された、ということです。

妹さんの回想によると(なにわ会戦記 長女の純子さん)、伊藤中尉は子供の頃はよく妹をいじめる兄だったそうです。
そのいじめ具合が少し変わっていて、兄妹だけの時はとっても優しい面倒見のいい兄であるのに、母親の前では意地悪をするお兄さんだったそうです。

そんなお兄さんも、兵学校に入ってからはただただ優しいだけのお兄さんに。

妹さんが女学校5年の時のこと・・・・。勤労奉仕の帰り道、兵学校の休暇で家に戻っていたお兄さんが、駅まで迎えに来てくれていたそうです。
そのとき、畑の中の道を歩きながら、
「両親を大事にしてくれ」
と妹さんに頼まれたのだとか。
「俺はいないのだ」
と・・・・。

妹さんが最後にお兄さんに会われたのは19年の夏。
その頃すでに嫁がれていて、旦那様の出張に伴い上京、当時、筑波空で教官をされていた伊藤少尉を訪ねられたそうです。
そのとき伊藤少尉は夏の賞与200円をそっくりそのまますべて妹さんに渡されたそうです。
「おれは使うことはないからな、お前使えよな」


そして、20年4月28日、伊藤叡中尉戦死。
同じ日に、伊藤長官戦死の報が伊藤家に届いたということです。