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多々良隊出撃2008年10月03日 10時37分56秒

20年3月29日、多々良隊、柿崎隊長と5名の搭乗員、伊47潜で出撃の時が来ました。

光基地の隊員全員がそろった中での短刀授与式、鉢巻をしめ、水盃、記念撮影・・・・晴れの門出です。

内火艇から潜水艦に乗り移った時には、長井司令官が一人一人の隊員に握手をして送られたとか。

潜水艦が航行を始めてからも、見送りの人々が、内火艇、魚雷艇、追躡艇に使っている小艇に乗って、いつまでもついてきたそうです。
「横田、たのんだぞォ!」
「おう、兄貴、戦果を待ってくれ。遅くとも一週間だぞ」

盛大に見送られ、かれらは絶対に戦果をあげると胸に誓って出撃していきました。

艦は豊後水道を目指して走ります。横田兵曹が後甲板に出てひとり春の瀬戸内に別れを告げていると、隊長以下5人がやってきました。
柿崎隊長が、「みんなそろったな」と、そこで話を始めました。
『「みんな、発進の日まで、からだだけは大事にしてくれ。俺を中心に、最後まで力を合わせて行こう。直進すれば、沖縄へは三日かかるか、かからんかだ。また、いつ敵に会うかわからないから、いまから十分に心にきめて、有終の美を飾るようにしてもらいたい。隊長として、いままで、ずいぶんやかましいことをいったりして、気に入らなかったことも多々あったろう。それは私の不徳のいたすところだ。しかし、もう、なにもいわない。俺たちの一本一本の戦果が、真にいまの日本の苦境を打開できるかいなか、責任は重いし、またそれだけにやりがいもある。どうかよろしくたのむ」
東北なまりの抜けきれない、ぼくとつな言い方である。
「はい、わかりました」
みんな、すなおに答えた。
「では、みんなで故郷のほうに向ってお別れしよう」』



多々良隊の襲撃目標は、訓練時の「航行艦」ではなく、「停泊艦」ということになっていました。隠密行動で沖縄まで4、5日の日程です。

みんなそのつもりでいたのですが、沖縄どころか、豊後水道を出たとたんにグラマンの編隊に遭遇し、警報が鳴ります。
爆弾を落とされたものの、被害はなし。

ホッとしたのもつかの間、今度は夜中に敵駆潜艇を重巡以上の獲物と間違え、接近しすぎて爆雷の雨をお見舞いされます。

回天搭乗員たちは、自分たちの回天のことが気が気ではありません。
何時間も追いかけまわされた揚句、危機一髪で何とか逃れられました。

その翌日、艦は種子島の内の浦に入港。そこで前日の爆雷の被害の確認をしました。
前日来の疲れでぐっすりと眠りこんでいた横田兵曹は前田中尉に起こされます。
「隊長がみんなを連れて来いって言っているんだ。すぐきてくれ」
いつもの温和な前田中尉と違い、おそろしく難しい顔をしていたことから、不吉な思いがよぎります。回天がダメになっているのでは・・・・。
士官室に行ってみると、前田中尉以上に不機嫌な顔をした柿崎隊長がいました。
「じつはな、油が洩って、とてもこのままでは走れない、っていうんだ。応急修理で突っ込んでくれって、いくらたのんでも、艦長は首をタテにふらんのだよ」
「ええっーー!」
そのとき、甲板上で損傷個所を調べていた折田艦長に呼ばれます。ハッチから出る前にすでに漏れ出した重油の匂いが鼻につきだしました。
甲板に出て見て、もっと無残な現実を目の当たりにします。
甲板に積んでいた回天が「まるで熱湯につけられたセルロイド細工のように、ベコベコにへっこんでいるのだ」。
伊47潜自体もひどい損傷を受けていました。
「こいつはひでえや。よく沈まなかったなあ」

搭乗員たちがあまりのことに放心していると、いつの間にか折田艦長が後ろに来ていました。
『「柿崎、すまんなあ。みんなもきいてくれ。・・・・再起をはかるんだ。すぐまた連れて出てやる。帰れんという気持もわからんじゃないが、これじゃあ応急修理もきかんよ。これで突っ込んだら回天発進どころか、潜水艦がここにいますと教えるようなものだ。俺も、部下全員を死なせなきゃならん。わかるだろう、成功の見込みのないムチャな突撃は、けっして特攻隊じゃあない。功を急ぐことはない。
俺の不注意でこんなことになってしまった。申し訳ないが、沈まなかっただけ見っけものだよ。俺自身、長いこと潜水艦に乗ってきたが、あんな身近でくらったのは、はじめてだよ。調査してみてわかっらんだが、これじゃダメだ。とにかくきょう打電する。再起をはかれ」
だれも返事をしない。』

横田兵曹と新海兵曹は初陣だったので、このときの心境はそう深刻でもありませんでした。
『「帰る」とはっきり言い渡されたとき、正直なところ、これでしばらく、また娑婆の空気が吸えるな、という喜びが、まずまっさきに私の心に浮かんだのである』

ところが、柿崎隊長、前田中尉、古川上曹、山口一曹はそうはいきません。以前にも出撃し、発進できずに戻ってきていたのです。
『「艦長、なんとかなりませんか。われわれはねえ、この前も帰ったんですよ。こんども帰るなんて、いったいどのツラ下げて帰れるんだ」
たまりかねたように、古川上曹が口をきった。口にだしたというより、けんか腰でくってかかる調子である。上等兵曹と海軍少佐だ。思わず、ひやっとした。
「古川!」
隊長がたしなめた。軍人は礼儀を正しくすべし。―さすがに隊長は、こんなときでもそれを忘れていない。
「いつまでもダダッ子みたいなことをいうんじゃない」
艦長もむっとしたらしく、とうとう語気を荒くした。いつも搭乗員にはやさしい艦長が、怒ったのだ。下士官に怒鳴られたのだから、無理もない。
「失礼なことをいって、申し訳ありません」
柿崎隊長が、冷静な口調でいった。その冷静さが、一瞬、けんあくになったその場の空気をやわらげた』

「いったいどのツラ下げて帰れるんだ!」
口に出してしまったのは古川兵曹ですが、おそらく、他の3人―柿崎隊長、前田中尉、山口兵曹―も同じ思いだったでしょう。

同期生・同僚の小灘利春氏の戦後の回想―
『そして彼(柿崎中尉)は、日の目を見ない潜水艦でのアドミラルティ諸島往復四十四日間もの遠征を終えて還ってきた時(1回目の出撃。19年12月21日出撃・金剛隊)も、黙って部屋に入ってきて、忽ち以前の生活に戻った。
同期の回天隊員の間柄ならば、この明るく穏やかな雰囲気が当然のものと私達は思っているから、いつも通りの彼の心のうちまで、推し量る必要がなかった。
しかし彼は、長い航海の後、帰投した最初の内地、呉軍港の宿で居合わせた級友と酒を飲み、独り声もなく泣いていたと、戦後になって聞いた時は、愕然とした。
無念であったろうが任務を果たせず戻ってきた事は些かも本人の所為ではない。
だが何であろうとも、歓呼の声に送られて華やかな出撃をしながら、皆の期待に応え得なかった。身の不運を嘆くとともに、その事を理屈抜きに恥ずかしいと考えたのではなかろうか』

参考:横田寛『あゝ回天特攻隊』光人社NF文庫、なにわ会HP戦記

追記:横田さんは修理のために入った港を「種子島の内の浦」と書かれていますが、小灘さんは「志布志湾の内浦」と書かれています。種子島の地図で「内の浦」を探したのですが、ちょっと見当たらないですね・・・・。

今日のプール・カオス(T_T)2008年10月03日 18時17分11秒

ふざけ男児と同じクラスは嫌だ、と土曜日から金曜日に曜日変更してもらったわけですが。

さらなるカオスが待っていましたっ!!!

たしかに全体の生徒人数は半数ぐらい・・・・? しかも、早い時間帯に入れたので、ほとんどが幼稚園児。これが間違いのもとでした。

土曜日は12級から14級ぐらいの子供12~4人にコーチが2人(1人の時もあり)ついていました。
この中に1人、毎週ふざけている子がいるのが嫌だったわけで。

今日はな、な、なんと!!7級から15級の12人に1人のコーチ、という状態。
わかりますか? 平泳ぎの練習をしている子からクロールができない子まで一緒にレッスンを受けている、という状態なのです。
全生徒数は土曜の半分ほどだったのですが、中級クラスの児童が少ないために、ひとまとめにされ、いっしょくたに指導を受けているのです。
シノ先生によれば、これが一番コーチとしてはやっかいなパターンだそうで。
人数が多くても、同じぐらいのレベルの子ならば教えやすい、でも、いくら人数が少なくてもレベルがバラバラなら授業がしにくい、と言っていましたが、今日の授業は人数は多いわレベルはバラバラやわでカオス状態。

しかもですよ!ふざけ男児がどうも1人ではない模様。しかも、しかも、土曜コースの男児のように「自爆型」ではなく「他人巻き込み型」。
自分の泳ぐ順番を待っている間、手にしたビート板で隣にいるお友だちの頭を殴打しかも激しく連打。
これだけではありません。ここのコーチは普通のコースの1.5倍ぐらいのコースロープの中を3人4人と並走させて泳がせていたのですが、横を泳いでいる子の顔面を手でわしづかみ(←泳ぎながらですよっ!!)。

ここのコーチ(♂)はさすがに見つけたら注意している様子でしたが、もう、ママは、
「やっぱり、今月でやめよう」
と強く決意しました。
なんだか、土曜日が「実は平和やったんやなあ・・・・」と思えるような授業でした。

12人もレベルの違う子がいたら、コーチもほとんど見ているとはいえないような状態。
最後の何分間かは、コースを2コースに増やして、右コースは平泳ぎ練習中の子とクロール泳げる子のコース、左コースは背泳ぎ練習中の子とクロール練習中の子のコースに分けて泳がしていました。
春海は右コースだったのですが、先生は左コースにつきっきりで、春海が言われたことをしていないのにまったく気づいていません。コーチは3・1呼吸で泳ぐように言ってから放置したようですが、春海は聞いていなかったのか、理解できなかったのか、ひとりだけずっと2・1で呼吸していました。コーチ、最後まで気づかず。
春海は基本的にいつも右だけで呼吸してきたので、ここの3・1呼吸に慣れていません。土曜日の時も聞いていなくて右だけで・・・・ということがあったのですが、その時はすぐにコーチが途中で止めて、こうだよ、と指導してくれていました。

・・・・今日ほどマンツーマンで泳ぎを教えてもらっているありがたさを実感したことはない、と言っても過言ではありません。やはり、マンツーマンで教えてもらっているスイミングに戻ろう・・・・。
Yコーチ、手とり足とり教えてくださって、ありがたくって、涙が出るわ・・・・(T_T)

せっかく、今日の授業には幼稚園時代のお友だちがいて、春海も再会を喜んでいたのですが・・・・。
1回、1700円も払っていくところじゃねえや・・・・(-"-)。

でも、春海は授業後のジャグジーにゆっくり浸かれて満足したらしい。

台南空戦闘機隊・出撃前2008年10月04日 21時15分41秒

台南空戦闘機隊
↑クリックしたら拡大します。

なんかねー(-"-)、この前、『海軍戦記』の台南空戦闘機隊の映像で、ママが渾身の研究結果(?)をここに発表したのですが、某P氏がその部分を高速スクロールで飛ばしているのを目撃してしまいました(怒)。

でもっ!!
ママは性懲りもなく、また同じネタで研究結果を発表します!!
いいんだいっ!! みんながスクロールしていたとしてもっ!! ママは書くぞっ!!

今日のお題は『日本海軍戦闘機隊』(ママのはどうもバッタもんらしいですが)の中で紹介されている台南空戦闘機隊の1枚の写真です。

解説がついています。
「17年8月、出撃を前にした搭乗員。左端は中島正飛行隊長、前列左から2人目高塚飛曹長、以下右に向かって大木1飛曹、河合大尉、大野中尉、山下飛曹長、右端は岡野3飛曹」

どれどれ? じゃあ、名前が挙がっていないその他の搭乗員は誰かな?
「17年8月」と書かれているこの日を特定しました。
これは簡単に特定できました。中島飛行隊長は思ったほど出撃していないので、ちょちょいと探してみると・・・・。
「17年8月」ではなくて「17年9月7日」のモレスビー攻撃時のようです。
以下編制表。

中島正少佐
太田敏夫1飛曹
茂木義男3飛曹

高塚寅一飛曹長
松木進2飛曹
中本正2飛曹

大木芳男1飛曹
羽藤一志3飛曹
森浦東洋男3飛曹

河合四郎大尉
金子敏雄1飛曹
高橋茂1飛曹

大野竹好中尉
佐藤昇2飛曹
米田忠1飛

山下佐平飛曹長
岡野博3飛曹
福森大三3飛曹

この出撃は、敵を見ず、戦果も被害もなし、です。

写真の搭乗員たちはまったくこの編制表のとおりに並んでいるようです。
体に氏名が書いてあるのは本の解説どおり、頭の上に↓つきで名前が書いてあるのはママが編制表から推測した氏名です。

中島飛行隊長はこの隊の指揮官なので搭乗員集団から一歩向こうに離れています。ですから、搭乗員集団の一番向こうの搭乗員は中島小隊の2番機が繰り上がって一番前に並んでいます。太田敏夫兵曹でしょう。
河合大尉と大野中尉の間に見えている小柄な搭乗員は大木小隊の2番機・羽藤兵曹ではないかと思います。
ママは羽藤兵曹の写真は「17年8月初めラバウル」という台南空戦闘機隊の集合写真しか知らなかったので、この発見(? ただの妄想かもしれませんが)は貴重でした。
同じく、251空でも活躍する米田兵曹(このときは1飛)も顔を知らなかったので、もし、写真の矢印の人だとするとかなり嬉しい。
残念なことが一つ。あのそらつき男・福森大三兵曹がこの集団の中にいるはずなのですが、山下小隊の3番機ですから、岡野兵曹のさらに右側、ちょうど写真では切れていて写っていません・・・・(涙)。
羽藤兵曹の向こうにぼんやりと搭乗員が写っているような気もするのですが、写っているとしたら中本兵曹でしょうね・・・・。

この頃、西澤さんは長期欠勤中です。

ホリブンが写っていたら嬉しかったんだけど・・・・。

高速スクロール覚悟で書いてみました、ちゃんちゃん(^o^)

インド行って来た(^O^)/2008年10月05日 14時43分42秒

ランチ・手前ベジタリアンセット、向こうチキンカレーセット
パパがインドに行きたそうだったので、今日のお昼、ちょっと冒険に行ってきました。

春海、
「インドにはコブラがいるから長そで長ズボンで行かなきゃ」
と、準備万端。

お店は、インド人らしき人が2人でやっていました。

パパはチキンと野菜カレーのランチセット。ママはベジタリアンセット(野菜カレーと豆カレー)。春海は卵チャーハンです。

ママの豆カレーは全然辛くなくて、春海はナンに豆カレーをつけてたくさん食べました。春海の卵チャーハンも色は黄色かったけどカレー味ではなくウコンの色。パパもママももらって食べたけど、全然辛くなくて、とってもおいしかったです。

パパとママはランチセットだったので食後の飲み物(チャイ)がついていたのですが、春海は単品で頼んだのでナシ。ママのセットのマンゴーソースかけヨーグルトを食べていたら、お店の人が、
「カワイイチャン、ラッシー、サービスネ~」
と、ヨーグルトドリンクを持ってきてくれました。春海、大喜び(^○^)

また行きたいって!

音楽DVDを観た2008年10月05日 14時58分55秒

たい焼き焼きを見学する春海とパパ
ママはいつも海軍さんの映像ばかり見ているわけではありません。たまにはフツーの映画や音楽DVDも見ます。

今日はアムロちゃんのDVDを鑑賞いたしました。

すごいね、アムロちゃんのボディ。30歳だって? 30歳だって!? ほんとに30歳!!??

脚なんかママの二の腕と同じぐらいだし、おなかの厚さなんかママの半分ぐらいだった。

歌いながら踊っているんだけど、あれは本当にやっているのかな?
あれをやったらアムロちゃんみたいなボディになれる???
見ていたら、結構、動き自体はワンパターンな組み合わせのような気もした。ママにもできるかな?

まず、15センチぐらいのピンヒールの皮ブーツ買わなきゃな。ビシッ!! バシッ!!
でも、あれをママが履いたらソッコーでヒールが折れるか、地面にめり込むかやね。

アムロちゃんのダンスでよくやっている動き。一瞬しゃがみ込んですぐに立ち上がる。
あれ、ママがやったらしゃがみ込んだ拍子に尻もちついて尾てい骨骨折→寝たきり、って感じでしょうか。
アムロちゃんみたいにすぐ立ち上がるにはワイヤーアクションが必要です、はい。

足をくねくねさせながらウォーキングするってのもよくやっていますが、あれぐらいならできるかな?
ヒヨコみたいにおしりを小刻みに振っている動きもできそーだ。

朝からバナナなんか食ってないで、アムロちゃんのDVD見ながら踊ろっ!
・・・・(・_・;)??