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山崎市郎平一飛曹2008年07月05日 08時11分12秒

光人社から出ている『零戦よもやま物語』という本の中に、台南空の石川清治さんが「不時着の神様」という話を寄稿しています。

―天下無敵の威力と驚異的な性能をもって全世界の注目をあびた零戦。そんな零戦もさることながら、わたしにとって、それ以上にわすれることができない思い出がある。それは、たびたび不時着しては無事生還してくるため、みんなが「不時着の神様」とよんでいた台南空所属の山崎市郎平一飛曹のことである。

こんな書き出しで始まる短編です。

昭和17年3月(22日、石川兵曹も山崎兵曹もまだ四空所属←西澤さんもいるよーん、山崎兵曹は当時三飛曹)、ラエに空襲にやってきた敵機を邀撃するため2機の零戦が発進しました。
そのうちの1機が山崎兵曹だったわけですが、かれはそれっきり帰ってきませんでした。

1日たち、2日たち・・・・4日目になり石川兵曹はとうとう同年兵の米川兵曹(片肺の96陸攻から飛び降りようとした人ですね)とともに、山崎兵曹の遺品整理を始めます。
と、その最中に、
「山崎兵曹が帰ってきました!」
との声が。
急いで飛行場に駆けだしてみると指揮所前に当の山崎兵曹、そして10人ほどの原住民が立っていたそうです。

「敵機を追跡して交戦中に被弾して飛行不能になり、ジャングルの中の草原のようなところに不時着した。ところが、そこは湿地帯で腰まで水につかり、さまよっているうちに川に出た。マーカム川だ。この川を下ればラエに帰れると、流木にまたがって下りはじめた。
そして二日かかって、やっと原住民の集落にたどりついた。腹がへっていること、ラエまで連れて行ってくれれば”ジャパンライス”と反物をやる、と身振り手真似で話した。すると酋長は快く引き受けてくれて、四日目には帰ってくることができた」
と、山崎兵曹は語ったとか。
そして、司令(森玉司令?)に向かって、
「わたしが彼らに約束したことをかなえてやってください」
とお願いしたそうです。
石川兵曹は、
「山崎の生還に手を取り合ってよろこんだのはもちろん、窮地に追い込まれても、最後まで原住民との約束を果たした誠実さ、そして不屈の精神力に敬意を表した」
と書いています。
「山崎のような人間がいたことが誇りだ」
とも。

かれらは17年4月台南空に編入され、ラエ、ラバウルから連日出撃を繰り返しました。
石川兵曹はちょっとわからないのですが、山崎兵曹や西澤兵曹は台南空が改称した251空にそのまま残留し、いったん内地に戻ったのち、翌18年5月から再びラバウルで戦うことになります。

18年7月4日、山崎兵曹はレンドバ島攻撃時に「コロンバンガラ(島)に不時着して、ついにかえらなかった」そうです。

―わたしたちは、いつもの通り、ちょっとその辺を散歩して、ひょっこり帰ってくるような彼を、何日も何日も待った。だが、彼の姿は二度と見ることができなかった。

山崎市郎平、大正9年、東京都出身。操練54期。

へえ、東京出身って、山崎兵曹は都会っ子だ~。
と思っていたら、「東京府西多摩郡桧原村」・・・・。どこだ?
ということで、ちょっと調べてみました。
東京の西の端っこの方、電車も通っていないような秘境なのですね。
ちょっと前にお昼のBSの番組で「桧原村特集」をやっていたので食い入るように見てしまったのですが、木々に囲まれ、清流が流れ、なかなかのどかないい感じの田舎でした。

江戸時代から続く伝統芸能がいまも大事に継承されているような村です。神楽とか獅子舞とか。秋祭がさかんらしいですね。
この桧原村に伝わる伝統芸能の一つに「数馬獅子舞」という獅子舞があるのですが、江戸時代に木原某という人が6人の村人に伝授したという記録があるということですが、この6人の一人が「山崎市郎平」という名前です。
この獅子舞のことを解説した記述を読むと、桧原村の「山崎家」というのはもしかしたら相当の旧家かもしれません。
同じ名前を代々(一代飛びかもしれない)伝えているということだけでも、旧家ぶりがうかがえませんか?
かれの義理堅さのおおもとはその育ちにあるのかなあ・・・・と勝手に想像してみたりしました。

あんな右を見ても左を見ても山ばかりの場所で、伝統のある旧家に育った山崎兵曹が(ママの想像が入っていますが・・・・)、何を思って海軍に入ったのでしょう・・・・。

海で戦い、海に消えた山崎兵曹・・・・最後は故郷の山々の情景でも思い浮かべたのでしょうか・・・・。

参考:柳田邦男・豊田穣ほか『零戦よもやま物語』光人社NF文庫

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