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5月11日第9銀河隊出撃2008年05月11日 08時53分55秒

宮崎基地 門柱
<深井良>①
拝啓
母上様にはその后お元気のことと存じます。私は、とても元気で、これから出陣致します。私の後は利男に願ひました。
母上様も御元気にお暮しなされますことを心から祈って居ります。
 兄弟姉妹達によろしく
       さよなら
五月十日

<鈴木円一郎>②(いつ書かれたものか不明)
 打ち合わす剣の下に迷いなく 身を捨ててこそ生る道あれ
 もののふの心の鏡曇らずば 立ち合ふ敵を映し知るべし
 天も地も己れとでもなし急降下 ただ目標と艦爆だましい
 もののふがかくなれかしと定めたれ ダイブの如くありたきものぞ
 なつかしの母の手紙をいただきて 待ちこがれたる身ぞおかしき

<小畠弘>③
母上様はじめ皆様その後ますますお元気のことと存じます、私もいよいよ待ちに待った軍人として否日本人として最高の名誉である任務を命ぜられ、明日征くことになりました、誠に感慨無量、我が国に生れた幸福と御両親様の有難さをこんなに深く感じたことはありません、亡き父上もさぞ喜んで下さることと思います、顧みればこの世に生を享け二十有余年、憧れの甲種予科練に入るまで温かい父母の御指導を仰ぎ、過去三年半は多くの上司の教えにより現在の栄冠を得ました、わが方の善戦により多大の損害を蒙りながらも、なお神州を侵そうと連日盲爆する憎みても余りある米機、明日こそは徹底的にやっつける覚悟です、上司に教わった尊い教訓と幾多の経験により絶対自信を持ってやります故、御安心下さい、決して祖先以来の伝統を汚さぬつもりです、では母上様ほか皆様くれぐれもお大事に、私は喜んで死にます、こんなに愉快なことはありません
一、 金銭貸借全くなし
一、 その他心配事これまた全くなし

<北山博>④
拝啓
五月十一日我、悠久の大義に生く
生前の万恩を深謝す
思残更に無く
皆々様に宜敷
昭和二十年五月十日夜   博
梅田武吉  様

<伊東 勲>④
遺書  昭和二十年五月十日午後五時四十八分
何もかくことはありません。只御両親様及久美子の健在を祈るのみ
勲は決して人におくれはとりません 潔よく散るのみです
目標は正規空母です
十日位したら徳島航空隊第十四分隊五班上野切君に便りして下さい
写真は受け取ったと泣かずにほめて下さい
幸多かれと祈るなり
親戚の皆様に宜敷く   宮崎航空基地より六時二十分終り

御両親様
孝養を頼むぞ久美子
安よ頑張れよ  享年二十歳

必ず勝つぞと突込む時は胸にさした基地の花もにっこり笑ふ
轟(注、K406)銀河隊二十年間この日を目指して噫 何たる感激ぞ
今正に実を結ばんとしている 有難う御座居ました
只孝養の尽(旧字)くせぬを謝す 郷党(旧字)の皆様に宜敷く
身はたとへ嵐の叫けぶ青海に雲染む屍と散りぬとも
咲く勲が香り止めて


<松木学>⑤
誰の手に手折られけんか桜花 ただ知るのみは醜の御盾と

<山根三男>⑤
戦友と共に誓いし桜花 九段の庭に咲きてあはなむ

準備のできた他の飛行機は次々に離陸して行った。その中に、同期の操縦員松木学一飛曹と偵察員山根三男一飛曹それに電信員伊藤勲一飛曹(乙飛十八期)で編成した、下士官だけのペアが含まれていた。
 彼らは離陸直後から二度と着陸することのできない基地にオルジス(発光信号を発信する器具)を向けて、「サヨウナラ サヨウナラ……」と、繰り返し繰り返し送信を続けながら、南の空へと消え去って行った。
 恐らく彼らは遠ざかりゆく祖国の山河を振り返りながら心の中でも「さようなら……」と、 万感の思いを込めて別れを告げていたに違いない。結局この出撃で「第九銀河隊」は八機が出撃し、 六機が未帰還となった。(古小路裕氏)


①深井紳一氏提供
 (深井良中尉サイトに実物の写真が出ています)
②海兵73期ホームページより
③深井紳一氏提供・和20年5月14日朝日新聞より
 (切り抜きのため、遺書が途中までの可能性もあり)
④神野正美氏提供・戦史室所蔵の遺稿
 (伊東兵曹の遺書は基地跡の石碑と違うか所がありますが、石碑の方が正しいかもしれません・・・・)
⑤予科練同期生のサイト「蒼空の果てに」より
 (遺詠は後藤義治氏手記、文章は古小路裕氏(第9銀河隊出撃取りやめ機)手記)
※著作権などの関係で、「これ、出しちゃまずいんじゃないの?」というものがあったら指摘してください。わたし、わからないので・・・・。

パパがお昼ごはんを作ってくれた2008年05月11日 12時36分04秒

たらこスパゲティ
パパがお昼にたらこスパゲティを作ってくれました。

母の日だから?

おいしかったです!