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堀二飛曹と樫村寛一飛曹長2008年03月29日 20時26分11秒

角田和男さんの『修羅の翼』光人社という手記に、樫村飛曹長に関してこんな記事が出てきます。

17年の年末になって582空に転勤してきた樫村さんはお酒が飲めなかったらしいのですが、角田さんのところに「お酒を持って搭乗員室に遊びに行こう」とよく誘いに来たとか。
角田さんは特別お酒持参で搭乗員室に遊びに行く必要を感じていなかったために、樫村さんのこの誘いにほとんど乗ることはなかったらしいのですが、このことが「思えば取り返しのつかない過失であった」と回想されています。

その後、航空隊もかわり、終戦前ぐらいに「樫村さんは厳しかったために空戦中列機に撃たれたらしいですね」と若い搭乗員に聞かれ驚かれたことがあったそうです。

18年1月2日の艦爆隊直掩任務の後、2番機堀光雄二飛曹、3番機明慶幡五郎飛長が樫村飛曹長に駆け寄ってきたところ、樫村さんは明慶飛長を振り返り、
「おまえ、俺を撃ったな」
と言ったそうです。
それを聞いた非番の搭乗員たちは「わあっ」と手を叩き歓声を上げたとか。樫村さんは顔を赤くして苦笑いし、明慶飛長も赤くなって弁解はしなかったそうですが、別に本当に1番機を狙って撃ったというわけではなかったようです。

「俺を撃ったな」と言われた樫村飛曹長も、冗談のつもりだったのでしょうか。その場は明るい雰囲気だったそうです。

この一件が、おそらくこの場にいたほかの搭乗員の口から誤解して伝わったのだろうと角田さんは推測されているのですが、「上下の交流に妨げを生じて、このような誤解が生じたことは申し訳ない次第であった」と述べられています。

このエピソードは樫村さんのエピソードです。「たしかに厳しい人ではあったが、厳しいだけの人ではなく、部下思いの人だった」と角田さんはいくつかのエピソードを挙げています。その中の一つです。
「樫村さんのエピソード」だってことはよくわかっているのですが、わたしはここで堀さんの名前が出てきたことに驚きました。
『日本海軍戦闘機隊』を見るまでは、堀さんの経歴は乙飛10期出身、19年後半高雄空で先任教員、343空戦闘301で先任搭乗員のち分隊士、ぐらいしか知らなかったので、582空の戦闘機隊にいたということも、あの有名な樫村さんの列機だったことも、角田さんの本を読むまで知りませんでした。

ただ、堀さんの「樫村飛曹長の2番機」という経歴は2週間ほどしか続きませんでした。
樫村さんが582空に着任されたのが12月24日(角田さんの本による)、堀さんが空戦中被弾落下傘降下して怪我をして戦列を離れるのが1月7日(行動調書)です。
堀さんは自身の手記には樫村さんのことは全く何も書かれていませんが、落下傘降下した時の堀さんの小隊も1番機樫村飛曹長、3番機明慶飛長でした。

樫村飛曹長は18年の3月6日、ルッセル島上空の空戦で未帰還、戦死されたということです。戦死するまで、3番機はずっと明慶飛長だったとか。

明慶飛長はラバウルを生き残り、横須賀航空隊勤務になります。19年7月4日、硫黄島の空戦で戦死されています。
実はママはこの明慶幡五郎飛長にも少なからず興味を持っています。機会があれば、そのうちにここに書きます。

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