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敷島隊の直掩隊2007年10月24日 19時45分34秒

鹿屋基地資料館零戦操縦席
昭和19年10月25日、フィリピンのマバラカット基地から飛び立った5機の爆装零戦が、タクロバンの敵空母に突入し、轟沈・大破させました。
彼らは敷島隊と名付けられた、関行男大尉(海兵70期)に率いられた一隊でした。神風特別攻撃隊のはじまりです(異説もありますが)。
あまり話題になりませんが、今日はかれら敷島隊を敵空母まで導き、敵艦載機から護衛する役目を負っていた「直掩隊」についてちょっと・・・・。
敷島隊の初めての出撃は10月21日でした。そのときは敷島隊と同じ201空戦闘305の谷口正夫飛曹長(操練50期)以下4機が直掩につきました。しかし、敵を見ず帰投。
23日、敷島隊は再び同じ直掩隊を率いて出撃しますがやはり敵発見に至らず帰投します。
24日になって直掩隊が交代しています。前日、直掩隊指揮官の谷口飛曹長が負傷したことと関係があるのでしょうか。203空から762空(T部隊)に編入されていた戦闘303から先任搭乗員の松本勝正上飛曹(乙9期)以下、本多上飛曹、菅川飛長、馬場飛長が直掩についています。
この日も天候不良のため敵を発見できず、全機帰投。
そしていよいよ25日には敷島隊は空母に突入するのですが、そのときの直掩隊は前日と同じ戦闘303がやっています。松本上飛曹以外は同じメンバー。松本上飛曹の代わりに日本海軍のトップエースと言われている西澤廣義飛曹長(乙7期)が直掩の指揮を執っています。
松本上飛曹はどうしたのかなあ・・・・と思うのですが、翌日(26日)、直掩を終えてセブからマバラカットに戻ろうとした西澤飛曹長一行(菅川飛長のみは敷島隊突入時に自爆戦死)の乗っていた輸送機がグラマンに襲われて全員戦死してしまうのですが、その中に松本上飛曹の名前もあることから、24日の直掩時、マバラカットに戻らず、一人セブに不時着したのではと思われます。
日本海軍のエースと、戦闘303の誇るべき先任搭乗員を一度に失うなんて・・・・なんとも残念なことです。本多兵曹だって、馬場飛長だって、これから期待されていただろうに・・・・。
輸送機なんかに乗らなければ、死ぬ人たちではなかったのですが。